8月28日 千住・吉原・浅草を行く:その5「千住の小塚原」

「さりま「さあ、昨日の神社から南千住駅前まで600m。この当たりが江戸時代の刑場、小塚原(こづかっぱら)」
「墓地のようですね」
「ここで処刑された人の墓なのじゃ。その中から特に有名人をご紹介」
「これは腕ですね」
腕の喜三郎(1642?〜1715:5月12日)。江戸寛文の頃の侠客。喧嘩で相手を倒したが、自分も腕を切られ、見苦しいというのでのこぎりで切り落とさせた。これが評判になったという。
 黙阿弥の歌舞伎『茲江戸小腕達引(ここがえどこうでのたてひき)』では、喧嘩をしないと自ら片腕を落としたが、剣術の師匠から奥義書を盗み、娘まで連れ去った男を追うために誓いを破り、ついに大立ち回りの末に討ち取るという」
「すごい人物に作られたんですねえ」
「明治時代の政治家鈴木喜三郎が、手腕を発揮したので『腕の喜三郎』と呼ばれたと書いたものを見つけたが、疑問。やくざ者の名前を知らない人はないだろうから、政治家にそれを転用する訳はないと思うな」
「はい、今後の研究課題ですね」
「隣は高橋お伝(1848〜1879)の墓。こちらも仮名垣魯文の作品などでお馴染みじゃが、『明治の毒婦』と呼ばれる。打ち首になった最後の女性」
「へえ最後なんですか」
お伝という名前で、歴史に残る妖婦が3人いるのは皆さんもご存知の通り。その中でも名高いのがこの高橋お伝じゃ。もちろん本名は『』で『お』は敬称だから自分では使わない。時代劇で自己紹介に『お』を付ける女がいるが、あれはスタッフ以下無知が集まって作っている番組だと分かるな」
「また、非難が来ますよ」
魯文の作品では『阿伝』と表記してある。これなら自分でも『おでん』と名乗ることになる。病気の夫を殺し、愛人と共に強盗を働いたというのが、その粗筋じゃが、明治政府が道徳のために利用し、大変な悪女を作り上げたらしい。史実としては夫は病死し、愛人と商売を始めるがうまく行かぬので、借金を申し込んだ。相手はお伝の体を求めたが、ことが済んでも金はないと言う。寝てしまった男を殺して金を奪った……史実はそういうことらしい」
「実は悲しい女性だったかも知れないんですね」
「次は直次郎(1793〜1832)の墓」
「写真右」
「これも黙阿弥作『天保六歌仙』の一人で、河内山宗俊と共に悪事を働く。なじみの遊女三千歳が墓を立てたので、この恋が歌舞伎などに描かれた」
「芝居ではみんな人気の人物になるんですね」

「最後に鼠小僧次郎吉(1797〜1832:9月13日)の墓。義賊ということになっているが、実際はそうでもないらしい。後ろ……写真の右にちらっと見えるじゃろう……古い墓があるが、削られて小さくなっている。これはするりと盗る(取る)から博打などのお守り、また人の家にするりと入るから受験のお守りとされたもの。博打と受験を一緒にするのだからあまり勧められたものではないと思う」
「藁にもすがるっていう奴ですかねえ」
「まあ、それだけちゃんと勉強していない奴が取りに来る訳じゃ」
「また文句言われそう」
「さ、小塚原はもう少し先まである。これはまた次のページで」
「まだ続きます」

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