市川を行く:その4・弘法寺へ

「さて、これから国分尼寺跡へ行く」
「参りましょう」
「この辺りがこの日お祭りでにぎわっていた」
「写真は碑だけですね」
「お祭りの写真を撮ったが、地元の人でないと、別に変わったこともない写真なので……」
「だんだん面倒になってきているのでございます」
「尼寺を経由して、手児奈霊神堂まで一気に1.7キロ歩いた」
「大変ですね」
「実は先に郭沫若記念館へ行こうと思っていたのじゃが、土地の人が違う方を教えたらしく、そのちょっと先の方へ出てしまった。もう手児奈霊神堂まですぐということで変更」
「地図をプリントアウトしておけばいいのに」
「まあ、ちょっと戻ればいいのじゃが、今日は相当歩いたので、もうやめにした」
「はい。それで手児奈霊神堂へ行くんですね」
「いや、そのすぐ傍にある、弘法寺へ」
「あら、また引っかかるの」
「ここは平安時代に行基菩薩が来て伝説の手児奈の霊を供養したという。元は求法寺といったが、弘法大師が七堂伽藍を造営、その時に真間山弘法寺としたそうじゃ」
「今日は歴史のお勉強」
「ここには俳句の碑があるのじゃ。今回はそれが目的」
「写真は参道ですね」
「かなり歩いたから、階段上りが辛い」
「頑張りましょう」

「はい、上が仁王門。奥の祖師堂は工事中でした」
「石碑に参りましょう」
「右の写真は小林一茶の碑。
  真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉(ままでらでかうひろひしよちりもみじ)
 『真間寺で、このように拾ったよ、散った紅葉を』くらいの意味。一茶は1798年、36歳の折この地へ紅葉狩に来た。その折の句か。句集には
  紅葉々や爺はへし折子はひろふ(もみぢばやぢぢはへしおりこはひろふ)
 も載っている。『紅葉の葉、爺である私はへし折り、子供は拾うことだ』かな」
「36歳で爺ですか」
「まあ、この頃の感覚では……」
「江戸時代ですね」
一茶は庶民的感覚ということで愛される作家じゃが……正直に言えば、あまり上手ではない。ただ、わしの住んでいる取手の奥、守谷に住んでいたことがあり、常磐線沿線で六句ほど詠んでいる……そういうご縁で」
「それだけの関係でございます」
「二つ目の碑は」
水原秋桜子先生の句。
  梨咲くと葛飾の野はとのぐもり
 説明不要かな」
「ここは葛飾なんですか」
「大きく拾い範囲で捕らえられている。梨の花が咲くのじゃが、松戸は二十世紀という品種の生まれたところで、この辺りまで梨は昔から有名じゃな」
「そうですか」
「わしの高校時代、学校で俳句を詠み、秋桜子先生の『馬酔木』に投句したら、わしともう一人が掲載された。それでうれしくて、押しかけ弟子になったという訳じゃ」
「ということで、今回の散歩道として外せない訳です」
「就職して間もなく亡くなったことは知ったが、わしは教師時代、三者面談があって葬儀にもいけなかった」
「まあ、普段の行いが悪いんで」
「実は日記に、この碑について書かれている。

句碑は実に見事なもの、大きさも適当で、彫金の板を石にはめ込んである。錆銅のものでさえ少ないのだから、彫金はほかに類例はないだろうと思う。碑のうしろには、句に詠まれた枝垂桜があって、毎年いま頃は開花するのだそうだが、まだ蕾は固い様子である。風生さんの句は、すらりとよくわかって、好い句である。字もすっかり手に入って、きれいだ。桜が咲くと、うまい具合に枝影が碑面にさすことだろう。来年は花季に来て見たいと思う。

 という訳じゃ」
「なるほど」
「右上にあるのが富安風生の碑」
「これも俳句ですね」
「  まさをなる空よりしだれざくらかな
 読んだとおり。真っ青な空から枝垂れ桜だなあ、くらいの意味。伏姫桜という桜の下にある。名前は前回との関連……里見八犬伝の姫君の名かな」
「はい、以上で句碑の紹介を終わります」
「いや、もう一つ。前に紹介したじゅん菜緑地にある碑じゃ」
「これも俳句ですか」
「こちらも、秋桜子先生亡き後、わしの師事した能村登四郎先生のもの。
  火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ
 『枯野の沖』という隠喩がショッキングな作品じゃった。先生の代表作で、句集『枯野の沖』、雑誌『沖』はいずれもこの句からついたのじゃ。
 『定本 枯野の沖』が出た時にサインをいただいたが、仕事が忙しくなると俳句会など参加する余裕がなくなってしまった」
「こちらの先生もお亡くなりになっていますね」
「2001年に90歳で亡くなった」
「はい、今日は大家さんの俳句の先生の句碑のご紹介となってしまいました」

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