RRB東京散歩(秋葉原〜日本橋):その20「久松経由人形町へ」

「さあ、地図で丸印三光神社をスタートして……」
「まだ歩くの……」

「こちらは富沢稲荷三光神社から140m」
「地図の丸1ですね。どういう由緒です」
「さ、先へ行こう」
「はい、どんどんいい加減になりますので……」

「160m先。ここは久松小学校
「地図丸2です」
「ここは詩人立原道造の出身校じゃ」

「地図丸3ですか」
「はい、久松の交差点まで190m。ここにあるのが賀茂真淵県居(あがたい)の跡……という札」
「『あがたい』って何です」
「彼は隠居後、県居の翁(おきな)と名乗っていた」

  あがた居の茅生(もふ)の露原かきわけて月見に来つる都人かも

「という歌を詠んでいる。その隠居所があったという意味じゃな」
「ああ、その隠居地がここなんですね」
「実はこの北東100mほど先……って説明されている」
「あらら」

「通りの南側にある笠間稲荷神社
「地図の丸4、わずか90mです」

「こちらはこの神社のおみくじ」
弁天様ですか」
「七福神の誰かが入っているのじゃ」
「じゃあ、そろえないと」

「さあ、270m歩いて、こちらは人形町交差点まであとわずか……地図の丸5にある飲み屋
「何です、それ」
「昔ここには人形町末広亭という寄席があったのじゃ。それを洒落たのじゃろうな」
「なるほどね」

「はい、ちょっと寄り道。脇に入って橘稲荷神社まで100m」
「地図丸6です」
「このまま北へ進めば今日の起点三光神社へ戻る」
「はい、ぐるっと回ったのです」
「この辺りは将軍家の御典医であった岡本玄冶(げんや)の屋敷があった。彼の家系が橘なのでここを橘稲荷という」
「なるほど」
「いつ出来た物かはっきりしないが、江戸初期に出来て江戸城内に移り、こちらに移転したという。安政6年の地図ではすこし位置が違うので、また移ったのかも知れない」
「新しく見えますね」
「震災や戦争でも残ったが、老朽化のため、地元の人達が寄付をして再建されたものじゃ」
「ほう」

「60m歩いて表通りに回った。これが末広亭跡
「地図丸7、昔寄席だったという場所ですね」

「50mで人形町交差点、地図丸8玄冶店跡
「さっきの医者と関係あるんですか」
「医者の屋敷があるため、この地域全部が玄冶店と呼ばれるのじゃ。お富さんの芝居はそれを店のように扱ったもの」
「へえ」
「さ、そういうことで、今日はぐるっと一巡りしたが、合計1kmちょっとじゃな」
「大変ですね」
「これから更に南へ……水天宮を目指します」
「まだ歩くの……」

21:水天宮への道へ進む     表紙へ戻る     19:椙森神社から三光神社へ戻る

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