9月19日 九識の会

「この日は九識の会
くしきって何です」
「五官の働きが五識。
 第六感という第六識、これは記憶や予測から判断すること。
 第七識は「未那識(まなしき)」といって、深層心理じゃな。心の奥深くで眠っていても働く力。我欲まで含むという考えもある。
 以上の識覚を生み出しつかさどるのが第八識の『阿羅耶識(あらやしき)』。これまでの7つは死によってとぎれるが、その体験や知識がエネルギーとして残るのじゃ。生まれつき持った能力がここから生み出される」
「難しい話になってきたぞ」
「そしてこの8つを根底から支えるのが第九識。簡単に言えば、こうした人間、知識を生み出している宇宙そのもの。これを開くことで、8つの力が大きな善のエネルギーとして活動し、理想の世界を生み出すのじゃ」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
「って、ことはまあ、どうでもいいことで、今日の会は落語。雲助師匠、志ん橋師匠、喜多八師匠の三人の一文字目を並べて『くしき』じゃ」
「今までの説明は何なんですか」
「写真は、その後の打上で乾杯の挨拶をされる雲助師匠でございまして、本編とは関係ございません」
「関係なけりゃ載せるな」
「前座は春風亭朝呂久で『道灌』。ま、上々かな。隠居と聞き手の年齢差、知識の差、要するに人間の深みに差が感じられなかった」
「無理に仏教的心と結びつけようとしているな」
柳家喜多八師匠の『おすわどん』。写真右」
「また……打上の写真」
「この噺のおすわどん、本来はひどい女で、主人をたぶらかし、女房を呪い、ついには殺してしまうという演出もあるとか。それを桂歌丸師匠が、死んでしまう女房が承知の上で後添えに入るということにした。聞いていて悪くは無いが、それなら幽霊におびえる心情がはっきりしない。怪談めいた部分が弱いので、あっさりした噺にするのがいいのじゃろう……ああ、くたびれた」
「台詞が長いんだから」
「長い台詞は大変で、覚えるのに一晩かかった」
「嘘だよ」
「とにかく喜多八師匠は、あのぼそぼそとした調子が、怪談にふさわしく進むので、妙に似合っている」
「ほめているのかどうだか分からないね」
「17日(日)の朝4:25から、TBSテレビ『落語研究会』に登場します」
「CMつき」
「右は打上のお料理でございます」
「関係ないって」
「仲トリは古今亭志ん橋師匠の『首提灯』。『胴斬り』を長いマクラとして演じ、本筋へ。斬られるほどに侍にからむ江戸っ子をよく描いている。斬られてからいつの間にか首が回っている様子、提灯を下げて火事見舞いに来る様子、仕種が実に見事な作品」
「満足ですね」
「右は師匠の写真でございます」
「また、打上だ」
「食いつきに鏡味初音太神楽
「あれ……これは……」
「そう。噺家さんがみんな落語協会なのに、芸協初音ちゃんがゲストなのじゃ」
「大変ですね」
「だからお客さんもなじみが無い。話に唖然とし、笑いが起こり、妙に受けて受けて……わしは何度も見ているが、こんなになったのは初めてじゃ」
「まあ、良かったということですね」
「会場は芸協なじみの場所なのに、天井に鞠をぶつけたのもご愛嬌」
「さあ、トリへ参りましょう」
「その前に、お料理を……」
「また……打上の紹介ばかりになってる」
「トリは五街道雲助師匠で『明烏』。親子の情を無理なく語り、吉原へ。3人のやりとりの面白さ、そして翌朝の会話のおかしさ」
「今日は出演者全てほめますね」
「いいのだから仕方が無い。三人三様で、それぞれの個性も光り、噺そのものの味わいも違う。素晴らしい会だった」
「よござんした」
「これですぐ帰れば『笑点』、先日真打披露宴に行った蜃気楼龍玉が登場するのじゃが、打上のため見損なった」
雲助龍玉の師匠でしょう」
「そう。だから仕方が無いかな……龍玉昇進披露興行は10月10日新宿末広亭、18日浅草演芸ホールで」
「またCM……他の寄席でもやるんでしょ」
「わしの行けるところだけ」
「しょうがないね」
「最後に、志ん橋師匠の手締めで、無事終わりと致します」
「また打上だよ」

 

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