名古屋の旅 その3 堀川周辺

「ここはやはり有名なひつまぶしにしようと言ったら、1時間待ち。それでその間に近くの七里の渡しへ」
「これは何です」
「東海道五十三次の旅でから桑名の間だけが七里の船旅だったのじゃ。五十三次では42番目と次。伊勢湾台風(1959年)の後、高潮対策で防波堤が作られ、景色は面白くなくなっている。」
「はい、時の流れというのは残念なものでございます」
「写真左は船の安全を守る常夜燈じゃが、これは寛永2(1625)年に作られたというが、もちろん1955(昭和30)年になってから復元されたもの」
「右は渡しのですね」

「さて、昼食が終わって……」
「あら……食事は」
「いずれまたご紹介。これからは家内と一緒に近所の見学。歌舞伎の中村宗十郎の出生の地、徳川家康が織田家の人質になっていた場所……と進んで、最後に裁断橋
「これは右の写真ですか」
「東海道にかかっていた橋なのじゃが、街道が整備される10年ほど前、子どもを亡くした母が、菩提を弔うために架け替えを行った。33回忌に再び架け替えようとしたが、母が亡くなったため、養子が完成させたという。擬宝珠(ぎぼし)が市の文化財として博物館に保存され、右下の写真は縮小された偽物」
「まあ、見れば分かります」
「この建物が姥堂の跡、二回に看板あり。右奥に『都々逸発祥之地』という碑が見える」
「都々逸って、ここで生まれたんですか」
「さあ……寄席の世界では茨城出身の都々逸坊扇歌が、上方ではやっていたよしこの節に、名古屋節の『都々逸、都々逸、都々逸ァご順ださっさとおやりよ』という合いの手を入れたのが始まりという……要するにその合いの手が、ここの姉妹によって作られたんだという……」
「はい」
「この辺りを歩いた感想……横断歩道が遠く、歩道橋が多い。年寄りは大変じゃろうな……わしも先月膝を痛めて、電車では席を譲られたほどだから、その時だったらとても耐えられない」
「年寄りに優しくない……ですか」
「一方、駅のエスカレーターで追い越しが少ないのはいいマナーだな」
「今ひどいですからねえ」
「以上がとりあえず名古屋の印象としておこう」
「はい」
「さあ、これでこの地には思い残すことはなく、名古屋市内へ」
「長かったですね」
「今日は名古屋まつり当日。それで名古屋フォーラムが行われた訳です」
「で、これからお祭り参加」
「そういうこと。それはまた明日」

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