3月26日 横浜

「さて、爺さんの書いた手記『春愁記』について解読を進めている」
「どういう内容なんですか」
「第1部が『郷里岡山時代』と題されていて、中学を卒業するまでの生い立ち、周りの様子、岡山の様子を描いている」
「お爺さんということは、古いんでしょうね」
「誕生が明治22(1889)年じゃ」
「すごい」
「『足守時代』は中学(今の高校)を出て一時足守で教師になった頃のこと。実際には半年でやめて大学へ入っている」
「大学はどちらへ」
「『名古屋時代』がその頃を描いておる。今の岡山大学にあった軍隊へ入隊、これについては4月8日に岡山大学に見学をしたからそのレポートを見ておくれ」
「はい」
「1年の入隊期間を終えて、大学へ戻り、卒業後は横浜へ就職した」
「はい、横浜が出て来ました」
「まず右上の写真『マツザカヤ』、これは大学時代の恩師が設計した建物じゃ」
「左は」
横浜開港記念会館。これがわしの爺さんが建築に関わった建物じゃ」
「実際には何をされていたんです」
「この現場で建築技師として働いていた。ほとんど付ききりで、現場の小屋に寝泊まりしていたそうじゃ」

「絵は」
「爺さんの手記にある記念館。完成間近の図じゃ。爺さんは中の壁画も手伝ったと書いている。昔と今の横浜の町並みを描いた物じゃが、遠景の家々は実際に目に見える建物を、爺さんが描いた」
「今もあるんですか」
「右の写真に見える部分に階段があり、その壁にあったという。関東大震災で崩れ、壁画もなくなってしまった」
「ああ、それは残念」
「見えている塔も壊れて簡略化したものが再建されたのじゃ」
「そうですか」
「毎月15日に内部見学出来るのじゃが、『俺を誰だと思っているんだ』と言ったら入れてくれた」
「ひどいですね」
「資料館で、当時の記録を出してもらった。建築技師の山田七五郎以下、技師・技手の名前が8人並んでおり、4人目に爺さんの名があった。前後の名前も『春愁記』に登場する人物ばかりじゃ」
「面白くなってきたね」
「さて、ここまで京浜東北線で来たのじゃが、さらに先に行くと根岸という駅があり、ここからバスで三渓園というところまで行った」
「これもお爺さんの手記にある場所ですねね」
「これが爺さんの記憶にある三渓園じゃ」
「資料なしで記憶で描いているんですね」

「そうじゃ。よくここへ出てニーチェを紐解いていたそうじゃ。ちょうどお年寄りの案内ボランティアが行われておったので、そこで絵を見せるとこれは南門のところから建物を見た図だときっぱり。今は全部埋め立てられ、世界が変わっているという」
「時代は変わるんだね」
「それで海に面していたのは昭和40年代まで。右の写真が同じ場所からのものじゃ。戻ってから『春愁記』を読み進むと、再びこの庭園の記事があり、縁結びの木について書かれていた。時間がなくて行かなかったので、また行かねばならないかも知れない」
「大家さんも大変ですね」
根岸から、さらに先、新杉田駅まで進んだ。ここに昔すごい梅園があったのじゃ」
「今もあるんですか」
「いや、爺さんの息子、これがわしの家内の父じゃが、初めて就職したのがここで、梅があった場所が全部工場になっていた、下宿の前に1本だけ残っていたとある。これは太平洋戦争の頃だと思われる。今はなくなっていることは分かっていた」
「じゃあ、そこまで足を伸ばすことはなかったですね」
「いや、ここから杉田駅まで歩いて、今度は夏丸君の登場する六ツ川寄席まで電車で1本なのじゃ」
「じゃあ、寄席の様子を」
「表紙へ戻って六ツ川寄席のページへどうぞ」

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