六歌仙(ろっかせん)

【粗筋】
 六歌仙のうち、小町をのぞく5人が集まって小町の噂。
 業平が、「俺はあの目にほれた」と言うと、黒主が「俺は鼻だ」、喜撰が「愚僧は口元」、康秀が「顔の白さに」と並べる。すると、遍照が外へ出て行こうとする。
「これこれ、どこへ行くのじゃ」
「厠へ行くから、俺の惚れところを一つのけておいてくれろ」

【成立】
 
享和3年『軽口噺』の「六歌仙」。柳連の演題一覧にあるのがこれか。

【蘊蓄】

u-hatena.gif (1724 バイト)小野小町のお墓はどこにあるでしょう、正しいと思うもののチューリップをクリックして下さい。

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 小野小町というのは本名ではなく、「小野家の美女」という意味のニックネーム。彼女を知る資料は古今集の歌だけなので、どの女性なのかと、昔から色々推察されている。こうして、小野家の関係がある土地や、小野という地名を持った地では、女が生まれたり死んだりした伝説があると、みんな小野小町になってしまったらしい。その一例を紹介すると……

誕生の地

秋田県雄勝郡雄勝町:「小野の里」という観光地になっている。小町を秋田美人の代表と考えて「秋田小町」という米も作った。全国百ヶ所以上の「小町ゆかりの里」に呼びかけ「小町サミットを開催した場所。
福島県小野町:磐越自動車道の小野、阿武隈高原の中にある町で、小野篁がこの地に流され、土地の娘愛子との間に生まれた比古子が成長して小町になったとしている。
滋賀県彦根町:中山道沿いの町。小野好実が通りがかって、宿の美しい娘を養女にしたのが成長して、小町になったとする。
熊本県鹿本郡根木町小野良実がこの地へ流され、長女・龍子と次女・小町がここで生まれたとする。産湯を使った泉を中心に「小野泉水公園」がある。

 捜せばまだまだありそう。

髑髏小町(どくろこまち)

 在原業平が東下りをして、陸奥の国・八十島で、小野小町がこの地で死んだと聞き宿を取った。夜中に声がして、
   秋風の吹くにつけてもあなめあなめ
 と声が聞こえる。翌朝、声のした辺りを調べると、髑髏の目から草が生えている。「あなめあなめ」は「ああ目が痛い」というのである。業平は涙を流して、
   小野とはならず薄生ひけり
 と詠んで手厚く葬った。

 これは大江匡房の『江談抄』(1104〜07)にあるのが最初の文献と思われる。本文ではこの髑髏が小町のものかどうか言及されていない。その後の藤原範兼の『和歌童蒙抄』では、この歌が小町集に収められているので、髑髏が小町のものであるとしている。ただし、こちらには業平は登場せず、死んだ後の小町が一人で詠んだものとしている。(片桐洋一氏は小町集のうち七首が後で書き加えられたもので、その中に「あなめあなめ」も入っているとしています。)藤原清輔の『袋草子』(1156頃)でも場所と男は不明である。鴨長明の『無名抄』(1209〜10)も同じ趣旨であるが、最後にこれが小町の屍で、この地を「玉造の小野」と呼ぶようになったという説明がつけられている。
 死体発見者も様々で、『古今集序注』では実方中将、『無名草子』(1196〜1202)では藤原道信、『榻鴫暁筆』では和泉式部小町の死骸発見者となっている。
 烏丸本『徒然草』には「小町の晩年の話が玉造という文に見え、作者は弘法大師だが疑問である。」という記述が見える。弘法大師業平ら六歌仙の前の世代であるから疑問は当然である。
 こうして、死んだ場所や伝説も色々となり、最初のクイズで見た通り、その墓も多数あることになったのであろう。柳田国男の説では、小野小町は小野氏の伝承を語り歩く一群の巫女で、全国に36以上の墓があると明言している。こうした伝説の女性が、語り継いだ巫女と一体化して、「玉造小町」となったというのがその説である。

後ろ姿の小町

 『三十六歌仙絵巻』の小町は後ろ姿である。これは美女の絵姿のパターンだそうな。見る人の好みや趣味があるので、どんな美人でも良くないという人は出て来るもの。それに対して、どうだ。後ろ姿なら文句の付けようがないではないか。
 さて、同じ『三十六歌仙絵巻』でたった一人横向きに描かれているのが清少納言である。これはどうやら「ブス」という意味らしい。まともに見ては即死するし、後ろ向きは美人に限る……というので、清少納言は横向きになるしかなかったのである。この考察は「留守番小坊主」に。
(右の画像は日本でただひとりの歌仙絵師崇石(しゅうせき)氏の作品です。崇石氏のHPへ『百人一首』が全て完成し、現在『源氏物語』の歌を作成されています。素晴らしい作品集ですよ)

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