京の茶漬(きょうのちゃづけ)

【粗筋】
 京都では、来客があっても座敷では何も接待をしない。帰ろうと表へ出る段になってから、
「まあええやおまへか、お茶漬けを一膳食べておいンなはれ」
 と言う。まさか上がり直して食べる者はいない。これを「京の茶漬」と悪口に言った。
  大阪の商人が京での仕事を終え、大阪へ帰ることにしたが、金を全部荷に入れて送ってしまい、昼食ができない。困った男が思い出したのが「京の茶漬け」……知人の所へ暇乞いに行って、相手がうっかり「茶漬けでも」と言ったら食うてやろうと、さっそく知人を訪ね歩く。
  数軒目で無事茶漬けにありついたのはいいが、困ったのはうっかり「京の茶漬」を口にしたおかみさん。お鉢の底まで全部寄せ集めても、茶碗に半分の飯しかない。茶漬けなのでそれでごまかしたが、お代わりをされたら大変、どうしようかと思い悩んでいる。そうとは知らぬ商人の方も、「お代わりを」という声が掛からないので、何とか言わせようと苦心する。
「一膳ぐらいどこへ入ったやら分からんなァ……いや、ほんまにこのお香々がよう漬かってまんなァ、これさえあれば飯の3杯や4杯はさァッと飛び込んでいきまッさ……またこの茶碗がええ茶碗や。この茶碗、これなんぼで買いなはったんや」
  おかみさん、傍らにあるお鉢をひょッとさし上げて(中を見せるように)、
「へ、このお櫃(ひつ)と一緒に買(こ)うたんどす」

【成立】
 1775年(安永4)『一のもり』の「会津」。1808年(文化5)十返舎一九の『江戸前噺鰻』の「茶漬」では、客が「それではお茶を下さい」という落ち。蛇足であろう。落語の場合は仕草で落ちになるのだと思う……というより、そうしてほしいと感じる作品。

【一言】
 原本が江戸のものなのに、江戸(こちら)の落語家が舞台に掛けなかったのは、シミッタレた噺で江戸ッ子には受けないためと考えています……。ところで『京の茶漬』も大阪では天保時代(1830〜44)のネタ帳に出ていますが、大阪(あちら)でも演り手は少なかったので。明治・大正ごろの新聞雑誌にもあまり出ていませんし、もちろん東京でも同じで……(飯島友治)
●  大阪弁と京都弁の使い分けをするだけもむずかしいですし、サゲも見立て落ちで、見てなくちゃわかりませんので、まァめずらしいというだけの噺です。(三遊亭圓生・6)

【蘊蓄】
 「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」というように、近くでありながらその気質は大きく異なっている。関東では東京と横浜ぐらいの違いという。
 茶漬けは安永年間に浅草に海道茶漬という店が出来たという。もともとは海道(街道)沿いの宿場で出す「手軽な料理」ということらしい。
「茶漬屋で、通り山吹、宇治の里、笹岡」(皇都午睡)
「山富貴源太郎、新橋北紺屋町、山吹御茶漬」(江戸買物独)
 などと記録に残る。「山吹」というのは宇治茶の種類であるが下級のもの。
 京都は奈良屋杉本家のご主人である杉本節子さんのお話を伺う機会があったが、京では飯を炊くのが昼のみ。夜と朝は冷やご飯を食べた。そこで一番手軽なのがお茶漬けであり、京のお茶漬けが広まった。漬け物は各家で漬けたので、おいしいそうだ。杉本家では、今でもしきたりを守って一日一度しか飯を炊かないとのこと。尚、「茶漬(ぶぶづけ)でもどうどす」というのは、時分過ぎでも帰ろうとせぬ無神経な客に、皮肉として使う言葉で、実際に言われたとしたら、とんでもない客だということになるそうだ。

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