お茶汲み(おちゃくみ)

【粗筋】
 吉原の安大国(やすだいこく)という店に初会で上がった男を見た田毎(たごと)という女郎がいきなり悲鳴を上げた。聞けば、駆け落ちをした男の病気を治そうと、金のためにこんな世界に身を沈めたが男は死んでしまったという身の上。その男とそっくりだったので思わず声を上げたのだという。年季があけたら一緒になりたいと泣くのを見ると、目のふちにさっきまで無かった泣きぼくろが出来ている。湯飲みのお茶を目になすっていたので茶殻が付いたのだ。
  「いやあ、面白かった」という話を聞いた男、その店に出掛けて行くと、女を見たとたんに悲鳴を上げ、駆け落ちをした女が身を売ってくれたが、病気で死んでしまった……と女のお株を奪ってしまう。
「どうか年季があけたら一緒になっておくれ……おい、どこへ行くんだい」
「ちょっとお待ち。今お茶を入れてあげるから」

【成立】
 大阪の「涙の茶」を東京に移入したもの。「茶汲み」「女郎の茶」とも。古くからある「黒玉つぶし」という噺の改作、また狂言の『墨塗女』が題材という二説が有力。「黒玉つぶし」は、お茶で涙を演出しているのを、隣部屋の客が見てお茶とを入れ替える。目から墨が流れ出したので驚く客に、「あんまり泣いたから黒玉をつぶしてしもうた」という落ち。
 いずれにしても『平中物語』のモデル平貞文の墨塗り譚に題材を得たものとされている(平中をモデルに、芥川龍之介の『好色』、谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』といった文学作品も生まれている)。
  『源氏物語』の「末摘花」に、源氏が紫の上と雛遊びをして、戯れに鏡の中の鼻を赤く塗る。紫の上が拭き取ろうとすると、「平中がやうに、色どり添へ給ふな」と言う。古い注釈書『河海抄』には、これは平中墨ぬりの故事をふまえたものと注されていたが、『平中物語』には墨塗り譚はなく、話だけが伝わって原作は消失したものとされていた。1943年(昭和18)になって『古本説話集』巻上「平中の事  第19」、平中がそら涙を用意したのを墨と取り替えられる話が発見され、現在はこれが原典として落ちついている。
  『堤中納言物語』の「はいずみ」では、突然に訪ねて来た男にあわてて、女がおしろいと間違えて墨を塗ってしまい、愛想を尽かした男が帰ってしまうという話がある。女は常に身だしなみを整えておけという教訓で、笑いはあるが事実上悲劇、これが狂言では純粋に女を笑うための話と変わる。
  これらが江戸小噺になり、上方落語の「黒玉つぶし」にふくらみ、「涙の茶」と改作され、東京へ移入して「お茶汲み」になった訳である。
 小噺集では、1781年(安永10)『はつ鰹』の「なじみ」などが上方落語と全く同じで、顔にお茶の代わりに墨を塗って落ちとする。上方から移植したと言ってしまうとそれまでだが、東京落語の「今お茶を入れてあげるから」という落ちに、とてつもないセンスを感じるのは私だけであろうか。

【一言】
 そら涙というのはずいぶんはやったらしく、『義経千本櫻』すしやの場で、息子の権太が代官所へ納める金を盗られたといって、母親に金をせびりに来る所がある。チョボの「しゃくり上げても出ぬ涙、鼻がじゃまして目の縁へ、とどかぬ舌ぞ恨しき……」で歌舞伎では、茶碗に茶をつぎ、それを指先で目の下につけて涙に見せる演出が行われている。『お茶汲み』のお女郎も、もっぱらこのテクニックを用いていたわけだが江戸末から明治にかけての安女郎だけに、笑ったあと狂言などにはない一抹のあわれさがのこりそうだ。手練の女郎、皮肉な客、演者の役のふくらませかたによって、いろいろちがった味が出せるのは、やはり廓噺のおもしろさであろう。(永井啓夫)
この『お茶汲み』のおかしさは、友だちから聞いたおいらんのはなしを、客のほうでやってみる。そうしたら女のほうで、ちゃあんと心得ていて、その逆をつくという所にありまして、実にどうもイキなものであります。(古今亭志ん生(5))

【蘊蓄】
 初めて登楼して遊女をあげるのを「初会」、二度目を「裏を返す」といった。三度目から「馴染み」となるが、見識のある妓楼では二度目までを「お見合」と称して、盃事だけで帰す。上方には「抱きっきり」と言って、必ず女が来る場合が多かったらしいが、東京では「回し」があるため、女は幾つかの座敷を回る。「初会」から女が来てくれると、「俺に気があるな」ってんでその気になる。相手が「初会」からべたべたに惚れて大変だというのを「初会惚れのべた惚れ」、一般には「しょかぼのべたぼ」と言う。

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