パガニーニについて

リスト (パガニーニを聞いて)パガニーニは「ヴァイオリンの魔術師」だ。私は「ピアノの魔術師」と呼ばれるようになりたい。

(その死に際して)パガニニといふ様な男は、もう最後の芸術家だ、といふ事にしたいものだ、あんな利己心と虚栄心の強い芸術家を、将来の芸術家は、断乎として拒否すべきである、パガニニの目的は内になく外にあつた、彼には技巧が手段でなく、目的であつた。(この言葉は全てを額面通りに受け取ることは出来ないであろう。リスト自身まだピアノのパガニーニを目指し、「パガニーニの主題による超絶技巧練習曲」を作曲中であった。この曲の完成は11年後である。パガニーニと違う点は、彼の場合、ショパンなどと技術を競い、お互いの手の内を明らかにして作曲している。このことを考えると、このパガニーニ評が理解出来てくるのでは?)

シューベルト:パガニーニに天使の歌を聞いた。(ヴァイオリン協奏曲第1番の第2楽章か)

ルードヴィヒ・レルシュタープ(ベルリンの演奏家):パガニーニは信じられないことを現実にした。……パガニーニはいままで知られなかった非常に困難な技術を披露したけれども、それらをすべて生き生きと優雅にひきこなしている。彼はここでいままでいかなる名手も果たし得なかったほどの成果をあげたといえよう。

カール・グルー(フランクフルト・アム・マイン学長、ヴァイオリニスト):聞き手はすべての困難を克服している彼のすぐれたテクニックに魅了される。パガニーニは際限もなく広いところに彼のファンタジーを繰り広げ、ヴァイオリンの崇高な音で、人々の魂を揺り動かす。……彼がアダージョをひくとき、その深さと力強さは言語に絶するものがあった。彼のアダージョの演奏はまるで傷ついた心の深いため息をうたっているようであった。

ベルリオーズ:長い髪と、鋭い眼光と、怪しい、そして粗暴な顔つきをした人の男。それは天才といおうか、巨人中の巨人といおうか。私がかつて見たことのない男であった。私は一目見て非常に感動した。男はただ一人ホールに突っ立っていた。私が前をよこぎろうとすると、呼び止めて手を握った。そして身も心も焼きつくすような激しい賛辞をおしつけた。この男はパガニーニであった。

クララ・ウィーク(後のシューマン夫人):私はかつて如何なる声楽家でも、パガニーニの如く人を動かすアダヂオを聴いたことがない。(10歳の折、父に連れられて初めてパガニーニを聞いた感想)

ヨーゼフ・ヨアヒム(ヴァイオリニスト):今、もしパガニーニがふたたび現れたら、わたしはこのヴァイオリンを永久に戸棚の中にしまいこんでしまうだろう。(ブラームスに言った言葉)

ペーター・コッセ:ヴァイオリンこそ、パガニーニから現代に受け継がれてきたもの、あるいは逆に、現代の美学的実在からパガニーニ時代の異種の実在にさかのぼるさまざまな創意、経験、実験、連想が託されている。

小林秀雄:(ヴァイオリンは1737年(バッハ51歳)、ストラディバリウスの死の時点で既に完成された楽器であった。ピアノはベートーヴェンの時代にやっと「幼稚な近代ピアノ」が出て来たに過ぎないということを説明し、ピアノはピアニストの技巧の進歩に応じて日進月歩したことを述べる)然しヴァイオリンは先に完成された楽器が出来て、その機能を開発すべく演奏者は導き促され、それに啓示されて作曲者が新しい楽想を夢みたのである。
 だから新しいヴァーチュオシティの時代が来て先に現れた演奏の巨人はヴァイオリン部門であったのも無理はない。即ちそれはパガニーニである。この巨匠の業績は、ダブル・ストップ、ピッチカト、その他テクニック一般に当時の人の想像出来ないことをなし遂げたのであるが、何といっても録音のなかった時代の演奏のことであるから、我々は形容以上のことは余りいへない。(中略)十九世紀的ヴァイオリンの巨匠は、後半になってサラサーテやイザイエを数えるが、確かに今世紀とは違っていた。私も若い時イザイエのレコードを持っていたが、その逞しさに異常な骨組みが感じられ、初期浪漫派の反俗精神がこんなものかと思はせるものがあった。私がパガニーニを想像するのは、その面影からである。(1955年4月『芸術新潮』)

小林秀雄「ヴァイオリニスト」
 メニューヒンの演奏会の切符をやるから、聴いてから何か書け、と新聞や雑誌から言われて弱つた。聴きたい事は聴きたくて堪られぬし、不精者の私に、独力で切符を手に入れるのは先づ不可能であるし、後で快楽を文章で反省してみる事など御免であるし、扨て困つた事だ、と思ひつゝ、目の前の盃にはつい手が出る習はしで、うかうかと酸度もたゞで聴いて了つた。金を返しやいゝんだらう、と言つてみたが、編輯者もう承知してくれなかつた。
 初め切符を見せびらかされた時、私は遅疑なく第一日目のを選んだ。無論、早くききたい事もあつたが、タルティニとパガニニの名が、プログラムに並んでゐたからだえる。と言ふのは、私は音楽をきくといふより寧ろヴァイオリンをきく積りでゐたらだ。名器を自在にあやつる名人の演技に目のあたり接したかつたからだ。(中略)今度の演奏会でパガニニのコンチェルトを二つ聞き、感動したが、以前、伝記を通じて得たこの大ヴァイオリニストに関する知識が、様々な意味で又新に考へられたのである。周知の様にパガニニの生涯には、妙な伝説がいろいろある。恐らくみんな嘘であろうが、彼を聞いた人達にしてみれば、伝説でも作り上げねば、とても、承知が出来なかつたらしい。当時でもヴァイオリンの名手は雲の如くゐたのでああるが、パガニニだけが全く比較を絶してゐたやうで、今日残つてゐる当時の批評を読んでみても、どれも批評といふ様なものではない。みんな茫然自失してゐるのである。彼が、イタリアから始めてウィーンに現れた時、全市は忽ち湧き返り、女はパガニニ式リボンを結び、パガニニ式肩掛を買ひ、男はパガニニ式煙草を喫ひ、レストランでは、ヴァイオリン形のパンでパガニニ式カツレツを食ひ、玉突屋ではパガニニ式に玉を寄せる、と言つた工合だつたさうである。今日では、ヴァイオリンの技術も非常に進歩して、パガニニの奏法の謎は技術的には解かれて了つてゐるだらうが、それは、パガニニにしても化け物ではなかつたと証明したに止まる事で、さして面白い事ではない。それよりもパガニニは二度と現れないといふ事の方が遙かに興味ある問題だらう。私はメニューヒンのパガニニを聞き、パガニニの伝記が自ら浮ぶまゝに、聞いた事もない、又再び聞く事も出来ないパガニニの音といふものをしきりに思つた。メニューヒンの健康さうな堂々たる体躯を見ながら、グランヴィルの有名な石版画に描かれたこの世の人とは思はれないパガニニの奇怪な姿態を思つた。パガニニの死骸は、或る事情により、とまあ言つて置く、モーパッサンも「水の上」で描いてゐる様に、彼の死骸に関してはいろいろと込み入った妙な話があるが、私には興味がないし、伝記を紹介してゐるのでもないから、止めにするが兎も角、ある事情から、彼の死骸は、硝子張りの棺に入れられて、久しい間、彼が死んだ宿屋に置かれてゐたが、ヴァイオリンが聞けなくなっては、せめて死顔でもとつくり見て置きたいといふ見物が、毎日雲集したさうだ。実は、この途轍もない演奏家の伝記を読んでゐて、其処に至り、演奏家といふものは一世一代のものと今更の様に感慨を覚えたのである。他の音楽家の伝記ではさういふ事はない。
 たかが、曲芸師パガニニと苦々しく思つてゐた音楽家は、勿論少なくなかつたのであるが、恰もその代表者の如く、非難の言葉を遺してゐるのはリストである。彼は、パガニニが死んだ時、こんな意味の事を書いている。「パガニニといふ様な男は、もう最後の芸術家だ、といふ事にしたいものだ、あんな利己心と虚栄心の強い芸術家を、将来の芸術家は、断乎として拒否すべきである、パガニニの目的は内になく外にあつた、彼には技巧が手段でなく、目的であつた」、と。円満な学識を備へ、高潔な人格者だつた大音楽家の批評に、間違つた処はなかつたであらう。それに、音楽史上の重要性に於ても、パガニニをリストに比べるのは無理である。併し、この生れつきの奇人にとつては、生きるとは、言はばさういふ非難を甘受する事であつたとも言へるし、彼がそれを意識してゐなかつたと考へるのも愚かであらう。パガニニの現代のヴァイオリニストと非常に違つたところは、私には簡単明瞭な事に思はれる。彼には師匠もなかつたし弟子もなかつた。彼が全く独力で行つたヴァイオリン技法上の革命は、或る流派を生むにはあんまり独得なものであつた。現代のヴァイオリンの達人達はお互に優劣の判じ難い様な技術を持ち、驚くほど広汎な演奏曲目を擁し、その解釈に心労してゐるが、さういふ事はパガニニの考へても見なかつた事である。彼は他人の作つた所謂ヴァイオリンの古曲的名曲には殆ど無関心だつた様である。人々の魂を奪ふ感動を創り出すのに、彼は民謡の一旋律をヴァイオリンの上に乗せれば足りたのである。彼はベートーヴェンを非常に尊敬していたし、有名なニ長調のコンチェルトは当時各処で演じられてゐたに相違ないと思ふが、彼がこの名曲を演奏した形跡はないのである。これは私の推察だが、彼にしてみれば、名曲たる事は理解できても、ヴァイオリンの魂に触れる曲ではないと信じたが為ではあるまいか。彼は晩年、ベルリオーズを未来の音楽の鍵を開ける天才と讃美して、この不遇な作曲家を援助する為に莫大な金を送つている。パガニニの眼には近代音楽の進展の方向は、恐らくはつきりと映つてゐたであらうが、彼はヴァイオリンといふ奇妙な楽器を慣らす事だけを頑固に信じてゐた様である。彼の名が全欧州的に喧伝された時には、彼の人間らしい生活は既に終つてゐた。若い頃の放蕩な生活で、夏でも毛皮の外套が要る様な馬鹿気た身体になつて了つてゐたのである。ヴァイオリンの箱に金貨を詰め、誰にも読めない暗号の会計帳をつくり、間断のない病気の心配に疲れ、溺愛した腕白小僧を一人連れ、いつも幕を下した馬車に乗り、ただ嵐の様な喝采だけが目当で、欧州中をうろつき歩いてゐた男、さういふ男を利己的だとか虚栄心が強いとか言つてみた処で始まらない。私に興味があるのは、かういふ己れの点稟の犠牲者だつた様な人間が胸底に秘めてゐた悲しみには、最後の芸術家といふ意識が恐らくあつたであらうと思ふ処にある。リストは敬神家であつた。彼の宗教は、近代音楽の和声組織や理論の合理性とよく調和してゐた。パガニニといふ宗教も哲学も信じない放蕩者は、ヴァイオリンに独特な歌を歌はせる果無い芸しか信じてはゐなかつた。彼にはドイツ流の音楽的観念は全く無縁であつた。彼の目的は、リストの言ふ様に、外部にあつた。音楽といふ目的は、弓が弦に触れて始めて実在し、又忽ち消えるのであつた。
 扨て、快楽を分析するとは退屈な仕事だ。私は、ヴァイオリンといふ楽器が、文句なく大変好きなのである。自分で弾けないから、人の弾くのを聞いて楽しむ。楽しむ限り、パガニニの亡霊を追はざるを得ないのである。
 私の友人にニコラ・ガリアノのヴァイオリンを持つてゐるのがゐて、見せてもらつた事がある。同じ形をしたいろいろなヴァイオリンの中で、どれがガリアノか全く素人の私にも一見して解つたのが不思議であつた。古い木工の美術品を見るのと全く同じ感覚から、色合と言ひ、姿と言ひ、彫りと言ひ、これに違いないと教へられぬ先に解つて了つた。それは、使用の自然さが錬磨されて自ら生じて来る何とお言へぬ美しさで、私は、その時、音楽に関係なくヴァイオリンを蒐集する人がある事を理解したが、ヴァイオリンの音色といふものはあの姿と同じものなのである。ヴァイオリンの構造の発達は三百年も前に止つて了つた。メカニスムに頼らず、出来るだけ自然に順応するといふ処に、あらゆる努力が払はれて来た以上、もうこれ以上を望めぬ完成といふものは当然来てよい事である。だが、近代音楽の知性化を鼓舞して来たピアノと並んで、近代音楽に寧ろ虐められて来たこの古風な楽器が、独奏楽器として、今日も依然として重要な役をつとめてゐるといふ事は、パガニニの亡霊なくしては理解し難い事であらう。パガニニのカプリスを子供でも弾く今日になつてみれば、彼の奏法が如何に自然なものであつたかに気付くのである。それはヴァイオリンといふ生物の如く自然な楽器の、何の無理もない歌である。私は、彼のコンチェルトを聞き乍ら、驚く程の転調を知つた人間の喉が、全く生理的に次々に新しい旋律を生んで行くと言つた風な美しさを感じた。バッハからバルトークに至るまでの、あらゆる異質の曲を平気で表現する現代ヴァイオリニストの頭脳の方が、余程曲芸を演じてゐるとも言へるであらう。(1951年9月

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